演奏のボタンがあります。これは1997年に録音しました曲名『BLUE STAR』です。
生まれて初めてのレコーディングでしたのでテスト版として、その1年2年先に本格的にCD制作をする為の前準備でした。
結局その後は具体的な活動が出来ず、ダラダラと時間が過ぎ気付けば50代。
酒の席で同年代が“残された時間、テーマを持って生きたいね” 結構カッコイイ言葉。
頑張れなくなったせいか挫折が多くなる此の頃、先が見えてきそうになり、もう50代だから・・イヤまだ50代だよ。
頑張ろうよCD制作! そして少し輝きたいね。
こんな挨拶文になりましたが、これからも読んで下さい。


かなり前になります。
ビジネス系の新聞か雑誌と思いますが“上司の一言”そんな連載記事がありました。 サラリーマン時代、ごく普通の職種(電算課勤務)でしたが、職場は大学病院でしたので一般の会社とは大きく異なっていました。その時の上司が『人はそんな簡単に死なないよ』当時は“えっ、それは逆でしょ!”と声に出さず反論。“あんなに元気だったのに・・あっけないですね”これが日常会話ですよ。またも声に出せず反論・・相手は上司ですから。
実はこの上司、新人オリエンテーションでも“君たちは事務部採用だがここは病院だ、多くの職員は病人と接する仕事をしている。” “ここは命を助ける職場だから・・・”日々病人と接している医師・看護師・薬剤師・検査技師と多くの職場の方々は、上司と同じ気持ちで仕事に向き合っていたかもしれません。『人はそんな簡単に死なないよ』病院勤務と云う立場から望みを込めた言葉と思っています。
今回コラムに纏めていると改めて職場に誇りを持つ素晴らしい上司だったと思いました。 残念ながら私は上司の様な誇りを持つ前にここを去りましたが、 そんな職場に勤めていた事を今は誇りにしています。


30年以上前になります。
一般家庭は黒電話(「#」や「*」無い)の時代・・・つまりアナログ電話全盛期。 (念のためですがCDというデジタル系は未だ存在していません)そんな時代に「これからは自宅に居ながら電車や飛行機のチケット予約や購入をしたり、銀行の振込みが出来る・・・そんな新しい生活を電話回線を利用して実現化します。」 そんな夢みたいな構想を立ち上げた企業家がいました。碓井優(ゆたか)さんです。更に「コンピュータは大量データを処理する単なる計算機でしたが、これからは情報を管理し情報を売る時代になります。」 と新しいコンピュータビジネスを提案しました。やはり、これも当時としては斬新な発想でした。
碓井さんの構想からの20年・・・1900年代はインターネット時代の幕開けとなりました。当時の”夢物語”は日常生活の一部になりました。その頃、念願が叶って碓井さんと会うチャンスが訪れました。 「第四楽章!? 変わった社名だね。」これが開口でした。それから、当時の壮大な構想や苦労を語って頂き、最後にぽつんと「少し時代が早すぎたね」その言葉はいまでも記憶にあります。対談当時は"事業を興すなら絶対成功しなければならない"と思っていましたが、今は"挑戦出来る事自体が幸せかな?"と少し変化してきました。これが良い意味か悪い意味かは解りませんが、若い頃のハングリー精神が薄れている事は残念ながら事実となって仕舞いました。 

※参考 1 : 碓井優さんが起ち上げた会社 "コスモエイティ" はマスコミから "ベンチャー企業" と呼ばれ以降IT業界に限らず開拓者をそう呼ぶ様になりました。
※参考 2 : 写真は音楽用のオープンデッキです。これと同じ大きさの磁気テープがコンピュータ業界でも多く利用されていました。中規模な企業はオフコン(オフィスコンピュータ)を導入して日々の売上げをこの磁気テープに登録して、計算センターに委託するのが一般的でした。当時のオフコンでは1ケ月分のデータ(磁気テープ25〜30本)をまとめて処理する容量や機能がありませんでした。
因に写真下にあるのはカセットテープです。オープンテープとの大きさが比較できると思います。


坂本竜馬の功績は皆さんのご存知の通りです。竜馬は新政府の人事に措いても 徳川の要人を加える提案でしたが、周囲から反対され実現しませんでした。竜馬は「いまや薩摩長州や徳川だとそんな規模ではなく、世界と対等に外交や貿易が 出来る新しい日本を創らなければならない・・・」ここまではTVでよく竜馬ファンの俳優さんが熱く語っています。ところがビックリ! 徳川幕府側であった会津藩にも「これからは世界を 知り、 世界を相手にしなければ、日本は世界から取り残される」坂本竜馬に近い発言をした武士がいました。神保修理(しゅり)といいます。
修理は竜馬の「徳川幕府は潰すが徳川家を潰す必要はない、戦(いくさ)になれば民にも被害がでる。」この言葉に一目置いていました。残念ながら、竜馬(暗殺)・修理(切腹)共に京都で亡くなりました。 もし、この両者が生きていたら会津藩そしてあの 白虎隊の悲劇は無かった・・そんな風に語られた記録もあります。

※参考1 日米修好通商条約
1858年に日本とアメリカ合衆国で交わされた条約で、日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり (諸外国の相場金1対銀15.3)金の流出が著しい不平等な取引になってしまいました。
※参考2 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武 家を守る四神(守護神)です。
同様に会津藩も「白虎隊」の他に「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」がありました。


8月になりますとやはり太平洋戦争の悲劇が報道されますね。
確か昨年だと思いますが、クイズ番組で”捕虜になった日本人兵士がオーストラリアで当初は平穏な生活をしていましたが、捕虜が増えるとタカ派(強行派)の兵士も多くなり、玉砕覚悟の脱走を企てましたが数百人の犠牲を出し失敗しました”
戦後、本来ならば遺骨は日本に帰る訳ですが、捕虜は恥じるべきとの教育でしたから、日本人兵士は皆本名を語らず偽名で申告した為、不明者としてオーストラリアの土地に埋葬されました。
クイズ番組はこの墓地にサクラを植え公園とし、更にオーストラリア政府が取った計らいが問題でした。 (もちろん、サクラはオーストラリアにはありませんので日本から運んだと思います)
答えは『日本の領土』にして帰還出来なかった方々への思いを叶えてあげたことです。
この公園、 シドニーから240kmにあるカウラ(Cowra)という町にあるそうです。
15回も渡豪してロングステイを夢見ている私とは違い、日本に帰りたかったのでしょうね。
残念ながらシドニー滞在では曇り・小雨で”世界3大美港”の美しい写真をアップ出来ず残念です。

※参考1 池上彰さんの特番で「第二次世界大戦」「太平洋戦争」他に「大東亜戦争」「アジア・太平洋戦争」の表現があると事でした。


1996年に将棋界で7大タイトル全て制覇した羽生善治さんの影響でしょうか、客先で将棋ブームになり、40歳を過ぎた私も仲間入りして対局しました。ほぼ、全敗!! 四段の知人(SE)から「3〜4級程度かな?」
この知人四段と対等に勝負する他のSEが急に賢そうに見え”SEなら例え遊びでももっと論理的になろう・・・”と思い、将棋センターに通い個人レッスンも受け基本から学び、1級までは何とか順調に進みますが・・・段の壁は厚い!
仲間も出来「40歳過ぎて頑張っていますね」若い有段者から応援して頂き更に、負けた対局の棋譜を再現して、致命的なミスは何処でしたのかなど反省会を催して頂きました。
結構前向きに学んだせいかやっと初段に。
趣味と云う遊びでしたが、習う側教える側が一体になっていたようです。
単なる聞き手ではなく、自分が幾つか考えた中から最終的に判断した理由は・・・ここまで討論していました。
数年後にスタッフを教育する立場になりましたが、この時に体験した事が全く生かせずスタッフの育成に失敗してしまい、組織として大きな財産を失うことになりました。

※参考1(2級→1級→初段→二段→三段と階級が上がります)
※参考2(棋譜 対局中に将棋駒を動かした履歴(手順)です)
※参考3(SE システム・エンジニアの略です)


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